執筆者某I

2015年3月16日 (月)

定期ブルトレ全廃

ついにこの日本から定期ブルトレというものが消えてしまいました。
これまで唯一の定期寝台特急として設定されてきた、第1列車、第2列車特急“北斗星”が臨時列車に格下げされたんですよね。
ニュースなどでも当然ながら廃止されたトワイライトエクスプレスがどうしても大きくクローズアップされますが、事件の大きさとしては北斗星臨時格下げのバリューも大きいのになと思います。

その“北斗星”が運転を開始した1988年3月13日、少し残念な出来事もありました。
“ゆうづる”が廃止されたんです。
廃止というよりも、上野-青森間の特急列車から上野-札幌間の特急列車への発展的解消ではあったんですが、“ゆうづる”の列車名が消えることには変わりなかったんです。
かつて、1965年10月改正で“ゆうづる”は“はくつる”に続く東北二番目の20系特急として運転を開始したそうです。
“はくつる”が東北本線経由だったのに対して、“ゆうづる”は常磐線経由での運転でした。
東北本線だけを見ますと、ちょうど電化が盛岡に達した時ですから、盛岡以南はED75、以北はDD51ということで片づけられました。
が、問題は常磐線でした。
実は電化がまだ草野までだったんです。
なんと、平(現いわき)-仙台間のけん引機が平機関区のC62だったんですね。
山陽本線のブルトレC62けん引時代と違い、私は小学生になっていましたから、低学年ながら特急をC62がけん引していることを理解していました。
ただし、当然ながら撮影には行けずに岩沼電化に伴う1967年10月改正を迎えました。
今思えば、夏至の前後なら上りの富岡、木戸、広野、末続あたりで十分に走りを撮れたはずなんですけどね。
鬼才黒岩先生デザインになる秀逸な“ゆうづる”のヘッドマークを掲げたC62は、永遠のあこがれとなりました。

“ゆうづる”へのそんな幻想を私はED75に求めていました。
しかし、その“ゆうづる”そのものが青函トンネル開業に伴います1988年3月で消えてしまうんです。
それはそれは一大事でありました。
ただ、ED75 1001号機をはじめとする多くのED75P形が、国鉄のJR移行を大前提とした1986年11月改正で青森機関区から盛岡機関区へと転配されていまして、青森東運転区(←青森機関区)に転配されてきていた700番台なども“ゆうづる”仕業に入ってきていましたから、心の整理はついていたんですけどね。

ED75“ゆうづる”の走りが撮影できるのは下りの青森方に限られます。
そして、その下り“ゆうづる”は24系客車の尾久客車区、札幌運転区転配の関係から改正前々日の上野発3月11日が最後の列車となりました。
つまり、ED75“ゆうづる”走りを撮影できるのは3月12日の朝が最後になりました(上りはその日の青森発が最終列車ですが)。
ED75がけん引していたのは3列車と5列車の2本で、5列車がED75“ゆうづる”昼間の走りのラストとなったんです。
けん引機は写真のように700番台のED75 715号機ではありましたが、万感の思いで見送りました。

そして、それからちょうど27年、“ゆうづる”を発展解消させて登場した“北斗星”も定期運転を終えました。

(写真/文:某I)

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2015年3月11日 (水)

3.13 に向けて

昨年12月から新幹線H5系による試運転が始まっている青函トンネルですが、そのトンネルは1988年3月13日が青函連絡船からのバトンタッチの日でした。
その前日までED79重連がウエイトコンテナを積載したコキ50000、1000t編成をけん引してのハンドル訓練が連日たくさん運転されていましたが、この日の未明、改3053列車を津軽海峡線通過一番列車として本番が始まりました。
津軽海峡線初列車はED79 1号機けん引下り海峡でも、記念の前面幕を出した485系上り“はつかり”でもなく、何の装飾もないED79重連高速貨Aだったんです。

対しまして、青函連絡船はその青函トンネル営業開始と入れ違いで廃止してしまいますと一部の貨車航送に支障しますことから、この3月13日のダイヤ改正日まで運航したのちに終航することになりました。
ただし、青森ベースで申しますと、早朝青森発の21便までで前日までに青森に到着していたすべての営業車両の航送を終え、その次の23便八甲田丸には控車ヒ500、ヒ600だけが積載されました。
控車とは、いつぞやの記事でご説明しましたとおり、重いDE10が船の車両甲板やそこと岸壁とを結ぶ可動橋に載ってしまわないよう、DE10と被入換車両の間に数両連結される車両のことです。
なぜ控車だけを積載するかといいますと、彼らは青森駅常備でも青森操駅常備でもなく、JR北海道の所属だったからです。
青函連絡船は国鉄時代は函館にありました青函船舶鉄道管理局の管轄、わずか1年弱でしたがJR化後はJR北海道函館支社の管轄だったんです。
なので、もう青森に用のなくなった控車は船に載せて所定復帰させなければなりません。
でも、津軽海峡線経由では最高速度65km/hのヒ500、ヒ600が連結できる貨物列車はありませんし、そんな遅い配給列車だって設定できなかったんですね。
かくして、青森駅構内にいた控車群はDE10に可動橋の手前まで押し込んでもらい、そこから先の数十mは構内係の方々の手押しで車両甲板へと入っていきました。
八甲田丸は23便で控車たちを無事函館に送り届けたのち、再び8便で青森へ戻り、青森でのその折り返しとなる7便が下り青函連絡船最終便となりました。
かつて何度となく過ごした船客待合室で終航式が挙行されたのち、青函7便八甲田丸は青森2岸を出航していきます。
この日は通常は厳しく禁止されていた岸と船とを結ぶテープも解禁となり、写真のような別離のシーンが展開されるところとなりました。
八甲田丸は下り最終営業便で函館に向かったのち、最後は青森港へとフェリー(回航)され、今でもここ青森2岸でメモリアルシップとして展示されています。

特急“北斗星”の運転はこの日の夜から始まりました。
青森運転所からは試運転列車が多く走る青函トンネルをすでに24系客車が札幌運転区へと転配されていました。
1988年3月13日は北海道ブルトレというものが初めて運転された日だったんですが、あの伝統ある特急“ゆうづる”がその日の朝に最終運転を終えた悲しい日でもありました。

あれから、まもなく27年が経ちます。

(写真・文/某I)

Hakkodamaru

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2015年2月22日 (日)

EF58 38“あかつき”

19号機、61号機、69号機、47号機、53号機、そして31号機と、Uさんが大窓でぶっ飛ばしてきましたね。
とってもいいですね、大窓。
ゴハチはやっぱりこうでなくちゃいけません。

それでは、私も大窓でいってみましょう。38号機です。
この機関車、1973年に広島工場での車体整備工事に伴って前面窓がHゴム支持化されてしまったんですが、それまではつらら切りを装備する大窓でした。
つらら切りを付けたということは上越線運用があったからで、新製配置は高崎第二機関区でした。
1952年に初めて製造された新EF58形式13両は、浜松まで電化されていた東海道本線に先がけて高崎・上越線に投入されたんですね。
13両のうち、35~41号機の7両が高崎第二機関区、42~47号機の6両が長岡第二機関区に配属されました。
少し前のUさんの記事にありました47号機がつらら切りを装備したように、これらの13両には全機つらら切りが取り付けられました。
この初期ロットでは前面窓上につらら切りどころか水切りも装備していませんでしたから、両機関区では大きな窓を見て「冬が来る前に何とかしねえと、トンネルで割れるべ」と、多くは工場と関係なく、区修で「だいたいこんなもんだろ」的に薄板を切って曲げて溶接したんですね。
ただ、高崎第二機関区のものと長岡第二機関区のものはとてもよく似ていますから、両機関区技術管理どうしでは、ラフな図面など何かやり取りがあったと想像されます(大宮工場主導の可能性も残ります)。
とはいいますものの、13両のつらら切り形状は各機でばらつきがあって、38号機は上部の左右R部が緩く曲がっているのが特徴でした。

38号機には、東海道本線全線電化に伴う1956年11月改正で転機が訪れます。
(この時私はまだ生まれておりませんが、それを裏付けます公的資料をこの眼で確認しておりますことから断言いたしました。まるで自分で見たかのような偉そうな言い方で申し訳ありません)
東京機関区転配です。
高崎・上越線から一転、東海道本線が活躍の舞台になったのですが、ここで特筆できますのは浜松工場で施行されました青大将塗装です。
(これは俗称でして、正式名称は特急用特別塗粧といいます)
この改正で特急“つばめ”と特急“はと”は、C62が完全に撤退し、EF58による東京-大阪間通し運転になったのですが、38号機は東機で1列車“つばめ”、3列車“はと”のけん引機に指定されたんですね。
つらら切りを装備したままの姿で青大将塗装になり、颯爽と“つばめ”や“はと”の先頭に立つ姿を諸先輩方のお写真でご覧いただいたことがあるかと思います。
それは1960年の両特急の151系電車化まで続きました。

38号機が再び特急けん引機に返り咲いたのは1972年10月改正でした。
その頃の38号機は下関運転所配属でした。
このダイヤ改正では貨物列車が大増発になり、EF66の増備が続いていたんですが、それでも貨物機がまるで不足してしまったんですね。
同時に関西ブルトレも増発されましたから、そこでもけん引機が使用増になりました。
そこで、国鉄では到達時分がそれほど問題にならない関西ブルトレと日本海縦貫線ブルトレ(こちらは短区間のためです)の最高速度を110km/hから95km/hに落として、けん引機をEF65PからEF58化してしまうという暴挙に出たんです。
それで機関車不足のすべてが解決です。
こうして、EF58“あかつき”、EF58“彗星”、EF58“日本海”、EF58“つるぎ”が誕生してしまったんです。
これらの特急仕業は米原機関区と下関運転所のEF58に設定され、まだ20系があった頃ですから、そのけん引のために両区所所属の特急仕業指定機には元空気だめ管引通し工事が施行されています。
20系編成は1968年10月改正からの110km/h運転化によってブレーキシステムが変更されましたが、ついでに編成内で必要になる圧縮空気は元空気だめ管から取るシステムになってしまい、ごく通常の自動空気ブレーキだけで走行できる95km/h運転でも、けん引機側に元だめ引通しが必要になってしまったんです。

38号機のいる下転は“あかつき”4往復の(向日町操)-新大阪-下関間を担当していたと思いました。
写真はその改正後すぐの頃で、この日は関西本線のD51や信楽線のC58を撮影したのち、わざわざ大阪まで行ってEF58ブルトレを撮影したものです。
“あかつき”は4往復中3往復が14系で、この写真の列車も14系なので元だめ引通しは必要ありませんが、仕業には1往復だけ20系が含まれていましたから、38号機ももちろん元空気だめ管引通し工事を施行しています。
EF58 35~39号機は前端梁の幅がものすごく狭いのが特徴なんですが、元だめ管とその白いコックが狭い前端梁の左右端に無理やりくっ付いています。
あと、38号機は製造時から前面ナンバーが下にずれていることが特徴ですね。

そして、38号機はこの撮影から間もない1973年には冒頭に書きましたとおり車体整備工事が施行され、大窓が失われました。
中坊時代のものすごく下手な写真なんですが(その後も下手なままなんですが...)、どうかご勘弁ください。
現像時の温度管理を怠り、ハイライト部を相当肉乗りさせてしまいました。

(写真・文/某I)

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2015年2月 8日 (日)

秋田機関区の2両のトップナンバー

まずはお願いいたします。
「それがどうした、今の秋田車両センターにはE611-1だって、E621-1だって、E625-1だって、E627-1だって、E629-1だって、E628-1だって、HB-E301-1だって、HB-E300-1だって、HB-E302-1だって、キヤE193-1だって、キヤE192-1だって、キクヤE193-1だって、トップナンバーはいくらでもあるぞ」って展開はどうかなしでお願いいたします。
私が言いたいのは昭和50年代初頭、秋田駅構内に隣接していた秋田機関区の話なんです。

それからもう一つお願いがございます。
私よりもかなり年上であらせられます、昭和20年代生まれ以前の諸先輩方がいらっしゃいましたらのお願いでございます。
今日ここで取り上げます機関車は、全線電化開業前の東北本線十三本木峠で皆さまをさぞやご不快な思いをさせたでありましょうものと拝察いたします。
本来は「本務機C61、後補機D51の急行列車」の本務機に、はたまた本来は「D51三重連の貨物列車」の前ガマにこの機関車が来ましたら、それはもう「ふざけんじゃねぇ、馬鹿野郎!」どころの騒ぎでは済まなかったことでありましょう。
私などの若輩者はそんな凄い時期の凄い列車でDLを喰らったことはもちろんありませんが、もう皆さまが見向きもしなくなった末期の列車では何度もDLを喰らっております。
このため、皆さまの万分の一ほどの悔しさは経験し、皆さまの悔しさをご察し申し上げますことはできます。
今でもこの世で一番見たくない物体でありましょう。
そんな機関車でございますので、どうか堪えていただけますようお願い申し上げます。
どうしても「ふざけんじゃねぇ!」という方がいらっしゃいましたら、下に掲載いたしました写真までどうかスクロールいただきませんようお願い申し上げます。

さて、前置きが長くなってしまいました。
秋田機関区のそんな取扱い要注意のトップナンバー、それはDD51 1号機です。
総勢649両が製造された日本を代表するDL、DD51形式の初号機です。
1962年の新製配置が秋田機関区で、まずは奥羽本線で矢立峠区間(陣場-碇ヶ関間)などを中心に奥羽本線で壮絶な性能試験が施行されたそうです。
これは直接見たわけでも性能試験担当者から話を聞いたわけでもなく、試験結果の報告書を読んだだけなので、詳細には言及できません。
なぜ奥羽本線が試験線区になったかといいますと、秋田機関区にはD51とともにDF50がたくさん配属されていて、奥羽本線では本務機に、矢立峠の補機にと活躍していて、本線用DLについてのノウハウがあったからにほかなりません。
C61やD51の煤で真っ黒になって働くDF50の写真をよく見かけたものです。
さまざまな試験ののち、DD51 1号機は盛岡機関区に転配され、引き続きD51などとともに試験の続きをやり、液体変速機や過給機、そして機関と、さまざまな問題点を出しきって、その後の量産化に寄与したそうです。

東北本線全線電化に伴う1968年10月改正でDD51 1号機は古巣の秋田機関区に戻り、奥羽本線や男鹿線の仕業に就きます。
私がこの機関車を時々見かけるようになったのは、それからの時代です。
奥羽本線や羽越本線の蒸機撮影で秋田近辺を通ると、見慣れない大きなDLがいたんです。
それがDD51 1号機でした。
ED75 501号機の記事でも書きましたが、そのED75 501号機と同じように、DD51 1号機も蒸機がなくなったらきちんと撮りたいと思っていたんです。
前灯には何も飾りがなく、キャブはひさしのない丸みを帯びた形状。
それはDD13をそのまま大きくしたような愛嬌ある出で立ちでした。
結果的に本線蒸機を駆逐した元凶ではあるんですが、この機関車だけはどこか憎めない表情をしていて、いつか撮りたいものだと思っていました。
(私は蒸機スジにDD51が来たのはすべて2号機以降ですので、この形状にアレルギーがないだけですが)
というわけで、蒸機全廃直後、秋田機関区のDD51 1号機の運用を少しばかり追いかけました。
写真はその時の走行シーンにしようかと思いましたが、その後の秋田機関区に入区した一連のコマを掘り返していると、ED75との並びがありました。
そのED75は701号機で、700番台のトップナンバーでした。
ED75 700番台は奥羽本線にしかいないので、701号機はブルトレなんかでも時々見られたんですが、秋田着の列車から解放された701号機はちょうどいい位置に入区してきてくれたんです。
ついでに言えば、ED75 701号機も1971年10月改正での奥羽本線秋田-青森間電化であの20号機を含みますC61を追い出し、大量のD51たちをとう汰に追い込んだ張本人なので、当時の私にはむしろこちらの方にアレルギーがありました。

でもね、よく考えてみますと、1971年10月改正まで青森機関区にD51 1号機がいて、奥羽本線での仕業を持っていましたから、「D51 1号機とDD51 1号機の並び」が東北本線に続いて奥羽本線でも狙えたんですね。
並びといったそっちだろうと今になって後悔しきりなんですが、当時の中坊にはそれはちょっと荷が重かったですかね。

(写真・文/某I)

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2015年2月 3日 (火)

EF65 503 “さくら”

Uさんの調子があまり良くない様子ですから、こちらもスクランブル態勢でいきましょうか。
(スクランブルというのはオーバーですかね。バトルステーションくらいでしょうか...)
【↑バトルステーション:アラート待機する戦闘機が滑走路の手前まで出て待機する、スクランブル(緊急発進)の一歩手前の状態です。以上、加筆しました】
Uさんはここ2週間ほど社会情勢の関係から業務がより激務になっていたでしょうから、体調不良はさぞや辛かったことでしょう。
ま、私はスランプの克服法バチが当たったと思うんですけどね(笑)。

さて、今日はEF65Pのブルトレです。
昨年の12月、EF65 501号機によりますリバイバル団臨“富士”が走りましたが、こちらは東海道ブルトレ現役時代のEF65Pです。
あの時にスカ線が被った記事で書きましたが、写真のEF65 503号機は501号機とともに1972年10月改正で東京機関区から下関運転所へ転配されまして、これは台検代機として上り“さくら”の先頭に立つ姿です。
おさらいしますと、東機のEF65Pは下転で集中台検を施行するようになりましたが、その台検時の東機仕業を肩代わりするため、EF65 501~504号機の4両が下転に転配されました。
台検を控えた東機のEF65PがをEL1組A1仕業に入り、下転に着くとそこで運用離脱して台検入りし、代わってA2仕業からA5仕業までの計4仕業(下関-東京間往復)に下転のEF65Pが入り、戻ると東機のEF65Pの振替台検が終わっていて所定運用に戻るという寸法です。
写真の503号機がけん引するのは本来の東A2仕業(明け)の2列車“さくら”ですから、東京ベースで考えますと、この日の東A3仕業3列車“はやぶさ”で下り、さらに翌々日の東A4仕業(明け)の4列車“はやぶさ”で上り、東5仕業の5列車“みずほ”で下るというわけです。

そうなりますと、下転に転配された4両はそれまでの激務とは異なり、ずいぶんと楽していたように思われがちです。
でもね、決してそんなことはありません。
東京-下関間は両側の回送、単機、入換を含めますと、1仕業当たりの走行距離は2253kmにもなります。
ひと晩でこの距離を走るわけですから、東機配属のEF65P全体での日車キロは実に2000kmに達しようかという勢いです。
そうしますと、EF65形式は全検、要検から15万km走行で台検が来ますから(東機のEF65Pに経過日数などはまったく関係ありません)、1両当たりでは1年ちょっとの間隔で、年間当たりでは約20両のEF65Pが下転での台検を施行することになります。
下転ではそのたびに5日間ずつ肩代わり仕業があり、さらに自区の臨時仕業やEF58関西ブルトレ仕業にも入りますから、多少は走行キロが抑えられる傾向にはありますが、決して楽というわけではないんです。
だいたい、1965年10月からそれまでのEF60 500番台に代わって東京機関区EL1組、つまり東海道ブルトレ仕業で活躍を始めたEF65Pですが、501~504号機は1972年10月までの7年間で200万kmほどを走ってしまっていたんです。
当時の貨物用電機では、一生かかってもそんなに走らない機関車がいくらでもありましたことを考えますれば、これがどんなにすごい数字かをご理解いただけるかと思います。
そして、東機EF65Pの東海道ブルトレ仕業はそこから6年先の1978年まで続きましたから、EF65Pはブルトレけん引だけで400万km近い走行距離を叩き出してしまうことになります。
この間、最初はぜい弱だった主電動機MT52も、東機、下転両区所の技術管理の壮絶な努力によって最強のモーターへの階段を昇っていきました。

その後、EF65Pは貨物用となり、また501号機は操配用となっていきますが、ブルトレけん引という使命を全うしきった彼らにとってそれはまさに余生と呼ぶにふさわしい時間でしょう。

(写真・文/某I)

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2015年1月31日 (土)

「S形」と呼ばれた異端児

国鉄時代の交流電機の代表形式といったら、何といってもED75です。
製造されました302両という数字は、国鉄、JRを通じて交流電機ではダントツトップの数字です(JRの交流電機は貨物のEH800しかありませんが)。
EF70から後は交直流機だけが運用されてきた北陸本線を除き、北は北海道から南は九州まで各地の交流区間で活躍しました(あ、JR東日本では700番台がまだ現役です)。

今「北は北海道から」と書きました。
北海道ではずっと蒸気暖房を使用してきたことから、ELといえどもその暖房源としてSGが必要で、これを搭載するED76 500番台の独壇場でした。
でも、国鉄時代、ED75は唯1両がしっかりとその一員に入り込んでいたんです。
その名もED75 501号機。
1両しか存在しない北海道用ED75 500番台で、制御方式にED75M形やP形の磁気増幅器による位相制御をサイリスタ位相制御方式に改めたため、「ED75S形」と呼ばれました。
でも、函館本線の電化は1968年の小樽-滝川間電化、1969年の旭川電化と比較的短距離で一段落するため、九州のようにSGなしのED75、SGありのED76を製造して客貨運用を分離するのは不能率ということから、ELはED76 500番台に一本化されることになったんですね。
というわけで、ED75S形はその後もずっと1両だけの存在になってしまいました。

配置は岩見沢第2機関区です。
岩見沢地区には機関区が二つあって、C57、D51、9600が配属される岩見沢第一機関区と、ED75、ED76とDL群が配属される岩見沢第2機関区があったんです。
なぜ「第一」「第2」という書き方をするかといいますと、正式名称岩見沢第二機関区の区名札が「岩2」だったからで、正式名称で書くと違和感を感じるためです。
その岩見沢第2機関区では当然ながらED75の仕業とED76の仕業は分離されていました。
ED76の仕業は急客から1200t専貨(石炭列車ですね)まで何でもあり状態ですから、SGのないED75 501号機のために貨物列車だけの独立した専用の仕業が用意されていました。
また、全域のサイリスタ位相制御システムから発生する過大なノイズが沿線の一般通信などに悪影響があったそうで、密集市街地の札幌市を避けて、長く岩見沢操-旭川間だけの仕業になっていました。
具体的な仕業はダイヤ改正ごとに少しずつ変化しましたが、深夜に岩見沢操を出て旭川方面へ向かい、午後旭川を出て岩見沢方面へ向かうというパターンが長かったんです。
蒸機時代に室蘭本線などの撮影を終えて夕方の岩見沢構内にいますと、砂川方面からよく単機で戻ってくるED75 501号機を見かけたものです。
でも、いつかの記事でもお話ししましたように、北海道総局管内では電機は進行方向にかかわらずNo.2側パンタグラフを上げて走りますから、函館本線で上り列車を撮影すると前パンでかっこ悪いんですね。

で、写真です。
そういういきさつで、いつか後パンのかっこいいED75 501号機を撮ってやろうと思い続けましたところ、蒸機全廃直後のある早朝、旭川近くで実現できました。
次位のDD51は無動ではなく、たしか深川からぶら下げてくる定期仕業だったと記憶しています。

(写真・文/某I)

Ed75_501

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2015年1月28日 (水)

それじゃ、ED19原形機いきます!

>面相が不気味。
>眉毛を剃った不良少年のような面構え。
>昔のホラー映画に出てくるフランケンシュタイン。
>見れば見るほど嫌悪感。
>こんなおっかない顔をした機関車。
>ウエスティングハウスが台無しとも言える最悪の改造。
>変形機好きの私をもってしてもこれだけはダメ。
>徹底的に、絶対に、未来永劫、断じていけない。
>それにしてもスゲー機関車。

前の記事で、ED19 3号機をUさんに思いっきり褒めてもらっちゃいました。
機関車の顔には一方ならない思い入れのありますUさんに、ここまで深く罵詈雑言、もとい美辞麗句を並べてもらえるんですから、それはもうあの写真をアップした甲斐があったというものです。
それにしましても、1枚の写真をパッと見ただけでこの形容力、Uさんの顔へのこだわりはもの凄いものがありますね。

でも、きっと大方の皆さまのご意見としてはUさんと同じ「何だ、こりゃ!」でありましょう。
ED19 3~6号機の前面窓小形化工事は4辺すべてを内側に寄せてしまったために表情が一気に変わってしまったんですね。
EF58のHゴム支持化を含めた前面窓小形化では、上辺や左右辺の位置は変えずに下辺だけを上昇させる工法でしたが(58号機と83号機は例外です)、それでも印象はかなり変わったものでした。
たしかに、そうした工法をとる方がガラスが小さく、パテの量も少なくて済むことになり、工場としては今後の保守の負担軽減にもなりましょう。
ED19 3号機の記事でも書きましたが、もし工事事由が合わせガラス化に伴うものでしたら、窓の面積からして高価な合わせガラスがおそらく半額以下になります。
1号機と2号機の前面窓で残っていますことから、工事はおそらく国鉄本社予算になる本社特修工事ではなく、静岡鉄道管理局予算になるイ号臨修工事、もしくは特別な予算立てのない基準費工事と推測されますから(きちんと調査したわけではなく、ただの推測にすぎません)、少しでも工事経費を抑えたい腹はあったかと思います。
それは、ED19といいますかED53の原形の前面窓はそれくらい大きかったことの証明でもありましょう。

それでは、ED19の名誉のためにも、原形前面窓の1号機の写真をアップしておきましょう。
これは中央西線のD51を撮影しました帰りに飯田線に寄ったかなんかだと思います。
こうして見ますと、小窓化されたED19もいいですが、大きな角ばった原形前面窓のED19もまたすばらしいですね。

(写真・文/某I)

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2015年1月25日 (日)

EF58初の解体機

先日、UさんによるEF58 21号機の記事がありました。
21号機は竜華機関区での晩年を棒台枠台車のトラブルによってずっと扇形庫の中ですごし、EF58の廃車第1号になりましたのは記事のとおりです。
私もその扇形庫の中の21号機を撮るため、D51がいた頃以来となる竜華機関区を訪れたことがありましたが、転車台を通して向こうの静まり返った扇形庫内にたたずむEF58という図柄は、新鮮ながらもどこかもの悲しさを感じたものでした。

さて、1978年3月17日付けで国鉄工作局車両課から出されました廃車通達には、21号機とともに同じ竜華機関区に配属されていたEF58 28号機の名もありました。
EF58の廃車第1号は21号機と28号機の2両だったんです。
そして、解体は28号機が先になり、最初に姿を消したEF58になりました。
21号機は使われていない扇形庫内にありましたが、28号機は直前まで運用されていて、運用から落ちた直後から矩形庫周辺の留置場所に窮したんでしょうね。
先に解体のため鷹取工場に送られてしまいました。
EF58 28号機は第2次装備改造工事が早い順番でしたから、いわゆる新EF58の初期のものと同じ車体が与えられ、前面窓が大窓だったんです。
私はこの28号機を浜松機関区配属時代に撮影していましたが、かつて蒸機撮影に出かけるついでに撮影しました下り急行“紀伊”(東京発紀伊勝浦・鳥羽・王寺行きですね)の先頭に立つ姿だけで、それは暗くて「これが28号機」という写真としての体を成していませんでした。
そこで、工場送りになった28号機を解体前の最後のチャンスに昼間順光で撮影しておきたいと、鷹取工場を訪れました。

Ef58_28s

写真はその時のものです。
解体線にあった28号機はすでに解体工事が始まり、再生品となるのでしょうパンタグラフ、気笛、シールドビーム化された前灯の片側、ワイパー、前面ナンバーの文字板、ブレーキパイプなどがすでに撤去されていました。
28号機は鋳鋼製先台車ですから先台車枠端梁がなく、5号機、29号機、30号機ととも車輪がむき出しの凛々しい姿だったんですが、そこは姿を留めていたものの、解体作業員がかけたのでしょう、タオルが掛かったハンガーが痛々しい状態でした。
おそらく、機械室からは貴重な蒸気発生装置SG1A改も外されていたはずです。

なお、写真は小さく扱わせていただきました。
「機関車に生あれば見せたくない姿もあるはず」とは、故臼井茂信先生が名著「蒸気機関車の系譜図」の回転式火粉止めの稿で記述されている言葉ですが、その考え方をならわせていただきました次第です。
クリックしていただきましても大きくなりませんことをお詫びしますとともに、ご理解をお願いいたします次第です。

(写真・文/某I)

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2015年1月22日 (木)

小窓最高!

といいましても、それはまさかEF58のことではありません。
EF58は大窓がいいに決まってます。
(あ、これは私が勝手に思っている偏った意見、愚見でして、EF58小窓機の美しさを否定するものではありませんです)

小窓がいいと申しますのは、ED19の一部の機関車のことです。
晩年は飯田線を走り、その中でもED17が軸重の関係から入線できない4級線(1965年までの旧規定では丙線)の元善光寺以北を含む飯田-辰野間で運用されていました。
ED19は大正末期の1926年に6010形式(称号規程の改正ですぐにED53に改称)としてアメリカで製造されたそうです。
ED53のF形バージョンのEF51とともに、棒台枠に動輪とその動輪を導く先輪が収められ、その上に出入台付きの車体が載るという手法がとられ、これはその後の国産電機の範となって、戦後のEF58やEF15まで綿々と続いていくことになるんですね。
車体前面の3枚折妻構造と屋上部からひさしが前方に突き出すというデザインも、国産機のEF52やEF53、EF10初期形やEF11初期形、ED16へと忠実に引き継がれています。
ED53は国府津まで電化されていた東海道本線の旅客用でしたが、のちにギヤ比を大きく変えて、6両全機が貨物用のED19になったとのことです。

さて、飯田線にやってきた6両のED19は伊那松島機関区に配属されていました。
このうち、1号機と2号機は前面窓が最後まで原形大窓を保ち、角はがっちりと角ばり、EF58大窓機の優雅さとは対局にあるような無骨さを伝えていました。
それはED53時代からの素晴らしいスタイルで、多くの人が支持することでしょう。
私もまったく同感です。
これに対して、3号機から6号機は浜松工場で大きかった前面窓を小さくして、角にRを付けたんです。
ED19の機関車車歴簿を見ていないので正確な理由が不明なのが申し訳ありませんが、前面窓周囲のガラス支持部の腐食が進行したのか、ガラス自体を合わせガラスにしたのかのどちらかだと推測されます。
もちろん、ガラスの支持は鉄枠とパテのままで、Hゴムなどは使用していません。
EF58でいいますと、高崎第二機関区、長岡第二機関区の大窓機が大宮工場での合わせガラス化の際にRの付いた小窓化が施行されましたが、それとよく似ています。
(小窓化工事施行機はその後全機ガラスの支持がHゴム化されてしまいましたが)

で、です。
その前面窓が小窓になったED19が妙にかっこよかったんです。
原形大窓機とはまた別のかっこよさですね。
Hゴムが付いてしまうと、当然ながらすべては興醒めなんですが、4両の小窓機は最後まで鉄枠、パテ式支持のままで活躍していました。
思いっきり小さくして、Rが付いた前面窓が何ともいえません。
(そんなのはお前だけだという突っ込みはどうかなしということで...)
どうせなら、同じ飯田線を走っていた旧形電車のクモハ51、クモハ53、クモハ54、クハ47、クハ68、クハユニ56、クハニ67などで時折見かけた、片側の前面窓だけの改修なんていうED19も見たかった気がします。

写真はその小窓化されたED19 3号機です。
撮影は1974年で、ちょうど会津若松運転区のC11を最後に本州から蒸機が全廃されたタイミングです。
なんとまるで交流機のように前パンを降ろしてきて拍子抜けだったんですが、小窓の特徴をよく捉えていますもので、あえて使わせていただきました。
デカいPS10BまたはPS14Aパンタグラフでしたらさらに痛いところでしたが、この3号機はPS15なので気持ちが少し助かりました。

(写真・文/某I)

Ed19_3

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2015年1月17日 (土)

航送車両の入換

まずは写真からご覧いただいてよろしいでしょうか。
見てのとおり、DE10による入換なんですが、ここがどこかと申しますと青函連絡船があった当時の青森駅構内なんです。
そうです、雪の連絡船桟橋の入換です。
もう少しくわしく書きますと、青森駅構内に三つあった連絡船用岸壁の一つ、青森2岸の入換で、手前が岸側、岸壁と船を結ぶ可動橋(数十cmという潮位変化に対応できる接続橋です)があって、その向こうに連絡船の車両甲板がぽっかりと口を開いています。
船は青森港進入を撮影したポジの前ゴマから推測すると摩周丸かと思われますが、定かではありません。すいません。

De10_1670

摩周丸を含めた津軽丸形の貨客船の車両甲板は4線構造で、各線とも20m級客貨車なら4両、4線合計で16両が収容可能でした。

船の階層を降りていくと突然線路と車両が出現する様や雰囲気は、航空母艦の航空機格納甲板ととてもよく似ています。

車両甲板は船尾側のランプドアを開放すると、線路は岸壁の軌道桟橋と連結することができます。
その際、船尾は左右の形状が絞られますから、中央の2線は分岐器で1線にまとめられて桟橋と連結されました。
そして、車両甲板に積載あるいは卸下する車両の入換は、地上側の入換機関車によって行なわれました。
ただし、思い機関車が桟橋上に乗ってしまうと船の重心にも桟橋の構造にも負担をかけてしまうため、入換機関車と被入換車両の間にはヒ500やヒ600といった控車が数両連結されて、機関車はあくまでも陸上だけを移動するシステムになっていました。

写真にもDE10の向こう側に連結された控車群を見ることができます。
さて、このDE10 1760号機はDE10 1500番台の中でもラストナンバーに近い機関車ですから、これを撮影した当時から心穏やかに眺めることができました。
このDE10では1976年初めまでの製造機、DD51では1975年までの製造機は蒸気機関車とう汰のために登場してきましたから、それはもう目の敵なんです。
たとえば、今は真岡鐵道に譲渡されて蒸機伴走用として使用されているDE10 1535号機は同じ青森機関区新製配置ですが、製造が1971年なので、もろに青森機関区所属の9600をつぶした機関車です。
これに対して、1760号機は1977年製造で蒸機の淘汰にいっさい関わっていないため、心情的に落ち着いて見ることができたというわけです。
ちなみに、青森機関区9600の完全DL化は奥羽本線秋田-青森間電化に伴う1971年10月改正時なんですが、連絡船桟橋入換仕業のDL化はそれより何年か早かったようで、青森操入換がまだ9600だった時も、すでに桟橋入換はDD13やらDD15に替わっていました。
青森機関区では4桁ナンバーの9600たちが多く見られたんですが、彼らをこの航送車入換でぜひ見たかったものです。

1988年3月、青函トンネルの開通によって青函連絡船のこんなシーンは見られなくなりましたが、今、また青函トンネル区間は新幹線走行という進化のためにブルトレの走行が遮られようとしています。

(写真・文/某I)

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