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2015年2月

2015年2月28日 (土)

DF50のルーツ

次回の渡道を3月7日から14日に設定した。長い休みをもらうわけだが、もう泣いても笑っても撮影機会は激減するから厚顔を通すつもり。思い余すことなく最後の姿を記録したい。

今回はとにかく人の少ない場所を中心に展開するつもり。年が明けてから北海道に行った友人に聞くと、有名撮影地にはかなり多くの人たちが詰めかけているようだが、どうせ面倒な軋轢も生じているだろう。こういう時期だからこれまでに目を付けておいた穴場を巡って、そんな摩擦が起きそうな場所からは距離を置こうと考えている。

昨年11月以来の久しぶりの北海道行き。その間、自宅にこもりつつ新たな撮影地はないかと自分としては非常に珍しく様々なブログも閲覧したが、残念ながら目新しいポイントは見つかっていない。最後になって冒険はしたくないとの心情なのか、皆さんあまり「新規開拓」には前向きではないようで、むしろ反対にこちらの写真と同じような絵を見かける機会が増えてしまった。きっと以前は人の少なかった場所も、かなり荒れてきたのではないかといった不安もある。

まあ、ガツガツせずにたっぷりある時間を気持ち良く過ごして来たいと思う。

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四国のDF50の写真をアップしたからにはそのルーツとも言えるDF911もアップしておきたい。

この機関車、実際に見たのは2回きり。すでに休車となっていて、まして動いているシーンは見たこともない。いつも高知機関区に留置されていて修学旅行などの際に何とか記録することができた。
もともとが試作型のディーゼル機関車で落成直後は貫通扉もなかったらしいが後年、四国に配置されたDF50との重連などを考慮して改造されたという。DF50よりも丸みを帯びて角が取れた優しい顔つき。スノープローがなくても引き締まったイメージは好ましい。

模型では16番完成品がなく、キットが数社から発売されていて、しばらく前に夢屋のものを特製品として製作してもらったが、もうすぐムサシノモデルも製品化するらしいから大いに楽しみだ。

(写真、文:U)

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2015年2月26日 (木)

DF50のファーストナンバー

関東に住んでいたおかげでEF58をはじめとする電気機関車を撮る機会には恵まれたが、振り返ってみると、それらよりもディーゼルのDF50の方が好きだったのは間違いない。

蒸気機関車がなくなって高校の友人に誘われEF57を撮ることから鉄道撮影に戻ったわけだが、個人的にはその頃まだ山陰線に残っていたDD54やDF50への興味が勝っていた。これらは蒸気機関車の時代を彷彿させる車両だし、その頃に天賞堂のDF50の模型を買ったことなどからもそれが裏付けられる。

ただし貫通扉の左右にある手すりが平面的な形をして黒いHゴムの九州のDF50は眼中になく、山陰、紀勢のものが中心。四国のものは高校生の身としては、やはり距離的に遠いことなどがネックになっていたものの、それでも大学生になってからは1号機が撮りたくて瀬戸内海を何回も渡った。

このDF50、よく見ると分かるのだが1号機から7号機までの試作型(1から6号機は当初非重連形、7号機は重連形の試作機)は量産機と比較すると正面の窓がやや大きかったり、運転席側窓の水切りの形状のほか、屋根のカーブもきついなどの特色があり、8号機以降と比べると車両の断面積に明らかな違いがある。
初めて紀勢線で4号機を見たときに、ほかの機関車との違いに気づくとともに気に入り、その後はこの試作型が来ると喜んだものでEF58同様、個人的には「大窓のDF50」と呼んでいたのが懐かしい。

1号機とは四国に渡る度に必ず遭遇できたことから、その縁は浅からぬものだったと振り返る。前もって運用を調べていったのは1回だけ。ほかの4回は何の予備知識もなく現地へ行って撮影することができた。

上の写真は1980年4月に多度津工場での全般検査を出て高松に戻る際のもの。定期列車の頭に付けてDF50の重連で所属区に戻ったが、讃岐府中でH氏や関西の方々と一緒に撮ったことが懐かしい。多度津構内で待機中と走行シーン(再掲)。これは事前にこの件を知って旅行先の福岡から飛行機でとんぼ返りして撮影に臨んだ。

下の写真は1979年3月。山陽線西部のEF58撮影のついでに高松に寄ったときの写真。当日の夜、高松駅に着いたらホームにDF501の客車が止まっていてバルブ撮影したが、翌日もホームに入ると同じ1号機が入線して来て、わずか12時間あまりの滞在中に2度も撮れたのだからラッキーとしか言いようがない。

四国のDF50は踏切事故対策として運転席が強化されていた。帯状に浮き上がって見える正面ナンバー取り付け部とその下部は補強が入っているために段差がある。

(写真、文:U)

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2015年2月24日 (火)

梅小路蒸気機関車館が暫定休館

梅小路蒸気機関車館が8月30日をもって、しばらくの間、休館となる。といっても来年春には京都鉄道博物館として生まれ変わるわけだから、「臨時休業」といったところか。

ここは開館直前の1972年10月初めと、まだ蒸気機関車が活躍していた当時に2回ほど行ったことがある。まだ小学生で祖父が付き添ってくれたことを記憶しているが、祖父は特にSLが好きなわけではない。和歌山へ行くときに新幹線の中から見えるこの機関区に行きたいとせがみ続けていたら、あるとき京都で途中下車して連れて行ってくれたのが1回目。C57190や2桁のC57の写真は祖父が撮ってくれたものだから、いずれ機会があればアップしたい。

D51499の写真は2度目の訪問時のもので、1度行った経験があるからこのときは単独だった。親切な方がいて、好きなC58(奈良線用の奈良運転所所属車)ばかりを撮っていたら、このD51499は珍しい形なんだよと教えてくれて撮った1枚。後藤工場製の変形デフや重装備が人気で後年、亀山機関区に移って関西本線などで晩年を過ごし、その後は静態保存された。アドバイスしてくれた方は今どうしているだろう。おかげで貴重な1枚となった(2カットのみ撮影)。

博物館になってからは4回ほど行ったが、機関車の両数こそ多いとはいえ、やはり現役当時の活気ある雰囲気に比べるとどこか閑散としてうら寂しい感じはぬぐえない。煙がたなびいていないし、立派な給炭台も撤去され動態保存をうたってはいるものの、静態のような印象だ。
正直言えば機関車の数ではかなうべくもないが、ここよりも実際に蒸気機関車が走っている山口線や磐越西線などの方が、よほど活気があると感じるのは自分だけではあるまい。

各地に鉄道博物館が造られる中、京都の博物館はどんな特色が打ち出すのか?

(写真、文:U)

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2015年2月22日 (日)

EF58 38“あかつき”

19号機、61号機、69号機、47号機、53号機、そして31号機と、Uさんが大窓でぶっ飛ばしてきましたね。
とってもいいですね、大窓。
ゴハチはやっぱりこうでなくちゃいけません。

それでは、私も大窓でいってみましょう。38号機です。
この機関車、1973年に広島工場での車体整備工事に伴って前面窓がHゴム支持化されてしまったんですが、それまではつらら切りを装備する大窓でした。
つらら切りを付けたということは上越線運用があったからで、新製配置は高崎第二機関区でした。
1952年に初めて製造された新EF58形式13両は、浜松まで電化されていた東海道本線に先がけて高崎・上越線に投入されたんですね。
13両のうち、35~41号機の7両が高崎第二機関区、42~47号機の6両が長岡第二機関区に配属されました。
少し前のUさんの記事にありました47号機がつらら切りを装備したように、これらの13両には全機つらら切りが取り付けられました。
この初期ロットでは前面窓上につらら切りどころか水切りも装備していませんでしたから、両機関区では大きな窓を見て「冬が来る前に何とかしねえと、トンネルで割れるべ」と、多くは工場と関係なく、区修で「だいたいこんなもんだろ」的に薄板を切って曲げて溶接したんですね。
ただ、高崎第二機関区のものと長岡第二機関区のものはとてもよく似ていますから、両機関区技術管理どうしでは、ラフな図面など何かやり取りがあったと想像されます(大宮工場主導の可能性も残ります)。
とはいいますものの、13両のつらら切り形状は各機でばらつきがあって、38号機は上部の左右R部が緩く曲がっているのが特徴でした。

38号機には、東海道本線全線電化に伴う1956年11月改正で転機が訪れます。
(この時私はまだ生まれておりませんが、それを裏付けます公的資料をこの眼で確認しておりますことから断言いたしました。まるで自分で見たかのような偉そうな言い方で申し訳ありません)
東京機関区転配です。
高崎・上越線から一転、東海道本線が活躍の舞台になったのですが、ここで特筆できますのは浜松工場で施行されました青大将塗装です。
(これは俗称でして、正式名称は特急用特別塗粧といいます)
この改正で特急“つばめ”と特急“はと”は、C62が完全に撤退し、EF58による東京-大阪間通し運転になったのですが、38号機は東機で1列車“つばめ”、3列車“はと”のけん引機に指定されたんですね。
つらら切りを装備したままの姿で青大将塗装になり、颯爽と“つばめ”や“はと”の先頭に立つ姿を諸先輩方のお写真でご覧いただいたことがあるかと思います。
それは1960年の両特急の151系電車化まで続きました。

38号機が再び特急けん引機に返り咲いたのは1972年10月改正でした。
その頃の38号機は下関運転所配属でした。
このダイヤ改正では貨物列車が大増発になり、EF66の増備が続いていたんですが、それでも貨物機がまるで不足してしまったんですね。
同時に関西ブルトレも増発されましたから、そこでもけん引機が使用増になりました。
そこで、国鉄では到達時分がそれほど問題にならない関西ブルトレと日本海縦貫線ブルトレ(こちらは短区間のためです)の最高速度を110km/hから95km/hに落として、けん引機をEF65PからEF58化してしまうという暴挙に出たんです。
それで機関車不足のすべてが解決です。
こうして、EF58“あかつき”、EF58“彗星”、EF58“日本海”、EF58“つるぎ”が誕生してしまったんです。
これらの特急仕業は米原機関区と下関運転所のEF58に設定され、まだ20系があった頃ですから、そのけん引のために両区所所属の特急仕業指定機には元空気だめ管引通し工事が施行されています。
20系編成は1968年10月改正からの110km/h運転化によってブレーキシステムが変更されましたが、ついでに編成内で必要になる圧縮空気は元空気だめ管から取るシステムになってしまい、ごく通常の自動空気ブレーキだけで走行できる95km/h運転でも、けん引機側に元だめ引通しが必要になってしまったんです。

38号機のいる下転は“あかつき”4往復の(向日町操)-新大阪-下関間を担当していたと思いました。
写真はその改正後すぐの頃で、この日は関西本線のD51や信楽線のC58を撮影したのち、わざわざ大阪まで行ってEF58ブルトレを撮影したものです。
“あかつき”は4往復中3往復が14系で、この写真の列車も14系なので元だめ引通しは必要ありませんが、仕業には1往復だけ20系が含まれていましたから、38号機ももちろん元空気だめ管引通し工事を施行しています。
EF58 35~39号機は前端梁の幅がものすごく狭いのが特徴なんですが、元だめ管とその白いコックが狭い前端梁の左右端に無理やりくっ付いています。
あと、38号機は製造時から前面ナンバーが下にずれていることが特徴ですね。

そして、38号機はこの撮影から間もない1973年には冒頭に書きましたとおり車体整備工事が施行され、大窓が失われました。
中坊時代のものすごく下手な写真なんですが(その後も下手なままなんですが...)、どうかご勘弁ください。
現像時の温度管理を怠り、ハイライト部を相当肉乗りさせてしまいました。

(写真・文/某I)

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2015年2月21日 (土)

辟易した貨物機へのHM取り付け

JR東日本の東京駅開業100周年記念Suicaは500万枚もの申し込みがあったとか。1枚¥2000だから単純計算してこれだけでザッと100億円、ボロい話だ。
こうしてみると最初の騒動が返って世間の注目を浴びさせるきっかけにもなったとすら思え、「転んでもただでは起きない」とか「ケガの功名」などという言葉がちらつく。同時に「柳の下の泥鰌(どじょう)」という言葉も浮かんでくるが果たして…。

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かつてウンザリしたのがデッキ付き貨物用電機へのヘッドマーク取り付け。旅客用でもないEF12やEF15、あるいはED16などに無理矢理マークを付けたイベント列車が仕立てられた時期がある。「つばめ」や「はと」牽いた往年のEF57にはマークを取り付ける台座があるし颯爽たるイメージもあるが、それまで地味に活躍してきたEF15などに強引にヘッドマークを付けても違和感が強すぎる。

国鉄末期からJR発足後しばらくの間、味噌も糞もマークを尊ぶ風潮が強まって、こういった妙な列車が走ったものだ。

自分の古いネガを見るとそんな写真が出てきた。1980年8月3日に吾妻線で走った高崎市制80周年記念のミステリー列車。デッキの手すりに針金を使ってヘッドマークを取り付けたのだが、茶色のボディに白っぽいマークの似合わないこと甚だしい。この日は雨まじりの悪天候だったからモノクロしか撮っていないが、晴れてカラーなら夏場でもあり、茶色のボディに白いデザインではマークの文字はすっ飛んでしまったのではないかと想像する。
同じようにデッキの前にマーク付きでもDD51にはマッチするのだが、強い先入観なども手伝って貨物用の電気機関車にはしっくり来ない。

このときは物珍しさや1号機の牽引だったから雨の中を出かけたが、その後に走ったED16や八王子のEF15を使った「スイッチバックの旅」(中央線・初狩駅へのイベント列車」などは見に行く気も起きなかった。
この風潮は自分を徐々に鉄道撮影から遠ざけるにじゅうぶん事足りるきっかけとなっていって、そういう意味でもこの写真を撮影したときのアホ臭さは今でも強く残っている。

(写真、文:U)

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↓こちらの姿の方が自然

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2015年2月19日 (木)

東京駅11番線のEF5831

12日の記事にも書いた東京駅11番線のEF5831(関)。この日は東海道線を下る回8111列車を牽く運用に充当された。ご覧のような大窓機でWP50のワイパー(運転席側のみ)が好きな自分にとっては宮原の53号機よりもお気に入り機関車だった。

このころ、大窓のEF58の形式写真を撮りたいと、止まっている姿が撮影可能なポイントをあれこれ考えては行ってみたものだった。もちろん形式写真と言うからには機関車の前部が左側に向いているべきだし、こんな風に運転席のドアが開いていては台無しだが、古き良き時代のようになかなか思い通りに撮れるような場所はない。妥協の産物であることを承知の上で、この場所で何両かのEF58を撮影したものだ。
この31号機も下関運転所で止まっているシーンを撮らせていただいたことがあるが、窓の写り込みなど、諸々気に入らない点が多く、もう少しマシな停車シーンを狙いたかった。

そのためこの場所で3回ほど、この31号機を撮ったが、結局どれもそれなりで満足には至らなかった。

そう言えば常磐線などが乗り入れることになる上野~東京ラインで21日、機関車の入線試験が行われ田端のEF65が3回ほど東京駅に入ると聞いたが、神田や秋葉原を機関車が通過するのは何年ぶりだろうか。

(写真、文:U)

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2015年2月17日 (火)

久しぶりのワシクリ

最近はUさんのお懐かしいお写真の数々やIさんの教養講座を拝見して楽しませていただいておりましたが、いよいよ定期のブルトレ運行もカウントダウンとなってきましたね。ブルトレ全盛期の時代から鉄ちゃんを始めた我々の世代にとっては、本当に隔世の感があります。EF81が「北斗星」、「カシオペア」を牽引していた時には定点観測で通い詰めたワシクリも最近はかなりご無沙汰でしたので、久しぶりに日曜日に車を走らせて行ってきました。まあ、架線柱が入るポジションなのでこのブログのお仲間の方々にお逢いすることはなかったですが、なぜか好きな順光ポイントなのでもう一度ここで撮ってみたいという拘りがありました。それにしても強風で寒かったです。さて、オマケの写真は昨年6月3日に同じ場所で撮ったEF8181代走の「北斗星」です。この時は何と亡き父親の通夜の前日でしたが、無理やり行ってしまいました。父親には申し訳ないですが、ローピン塗装になった今から考えれば、やはり無理してでも行って良かったと思っています。(写真・文:TBlog_20152171_3

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2015年2月16日 (月)

久しぶりに「あけぼの」

先日、久しぶりに早起きして自宅のゴミを出しに行ったら、定期列車最終期の「あけぼの」が北浦和を通過する時刻。2月の今ごろはまだ日の出が遅く、こんなに暗かったことを思い出した。

そこであらためてこれまで撮影した写真の中から、この時期のものを眺めていたら、「あけぼの」や「北陸」を撮りに最も多く通った北浦和でのカットが目にとまった。これは今の時期よりももう少し先、3月初めの写真だが、やっとここでも撮影できる季節になって出かけたときのもの。花粉症がひどくなると浦和界隈での撮影が「解禁」となったものだ。

ただし、ビルの合間から差し込む朝日は一瞬で、しかもスカートには日が当たらないという厳しい条件。編成全体が日陰の中に収まっているタイミングでレリーズしても良かったが、このときはカメラの露出をオートでアンダー目に設定し日陰と光が差す瞬間の両方を撮ろうと目論んだ。

好きな双頭連結器装備のEF64ではなかったが最近、カラーの画像が少ないこちらのブログには初出。こうして見るとブルトレはやはり早朝の撮影の方が雰囲気はあると感じる。

そう言えばここでよくお会いしたPIKAさんやG鉄さん、KIさんはお元気にしておられるのだろうか。そして高校受験のまっただ中にいるHo君は大願成就しただろうか?
あのころが懐かしい。

(写真、文:U)

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2015年2月14日 (土)

名撮影地、山崎

NHKの朝の連続テレビ小説「マッサン」を見ているが、サントリーの山崎工場をモデルにしたシーンが何度かあった。ドラマの中では鴨居商店となっている同社の創業者が日本初のウイスキー工場を山崎に建設したのは、電車の中から見える立地にこだわったというシーンもある。乗客へのアピールまで考えていたというのだからその着眼点は大したもの!当時、そんな発想をする人はいなかったのではないかと思う。
たしかに自分も大阪に行く際、新幹線の中からいつもこの工場に目が向いてしまうのは、ここが名撮影地という理由だけではないだろう。森の中に立つシックな工場の外観がまるで大きな教会のように映り、何とも荘厳な印象だ。関西では六甲山が見える芦屋付近とともに車窓からの景色として好きな眺めだ。

前述したように有名な撮影地でもあったが、同じく古くから有名な京都・山科よりも撮影には適していたと思う。昭和51年にC571が走ったときには不幸な事故もあったが、その後もここを訪れるファンは多い。
最近は高槻との間に島本という駅が設置されたし、昔のようには線路のそばに近づくこともできなくなったが、それでもまだまだポイントは多く、特別な列車が走るとここを撮影の際の有力候補地と考える傾向は引き続き健在だ。

かく言う自分もEF58牽引の団体列車や特急電車など様々な車両を記録したが前回、2009~2011年の2年間の大阪赴任中もA氏らと何度も行った。通過する列車も様変わりして被写体の魅力は低下してしまったが、そのぶん近くを走る阪急京都線などにも目を向けるようになって、昔とは異なった別の楽しみ方を見つけることができた。

下の写真は1980年9月のEF5853最後の運用。たしか「但馬ビーチ○○号」という臨時の急行だったが(その回送だったかも?→後にRDO3様のコメントにより「但馬」ではなく広島への臨時列車だと判明)、山崎という「舞台」にふさわしい堂々たる編成だった。

(写真、文:U)

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2015年2月12日 (木)

神田のEF5847

一部を除いてやっと体調も良くなってきたからそろそろ北海道行きを計画しようと考えている。ただ、やはりメインターゲットとなる列車は上り「トワイライトエクスプレス」にまちがいなく、もう少し先になりそう。雪も減ってくるから病み上がりの身としては少しは楽だという計算も働く。

いずれにしても「冬眠」から目覚めるべく準備を整えたい。

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このところ家に逼塞していたから古いネガのスキャンも少しだけ進んだ。まだまだK・M氏の足下にも及ばないが、EF58を中心に連日の作業を続けている。

今回はどうということのない当時、宮原機関区に在籍していた47号機。ヒサシはあるものの、大窓で汽笛には耐雪用のカバーまであって人気のあった機関車だった。耐雪のための汽笛カバーということはかつて北国で活躍していたわけで新製直後の配置は長岡。

この写真は上り「銀河」牽引で1980年1月19日に撮影したが撮影地は神田。もうすぐ常磐線などが東京駅に乗り入れる区間だ。この頃は東京駅7番線に到着してから乗客を降ろし、客車を牽いたまま神田駅のすぐ手前で機関車の付け替えをやっていた。列車から切り離された機関車は秋葉原方まで行って停車、機回しをして品川方に連結、そのまま東京駅の11番線(ホームはなく、回送列車や荷物列車の着発に使われていた)まで20系客車を牽いていったん停車した後に品川に入庫していた。

6×6のブロニカで撮影するにはこの機回しは絶好の被写体。晴れても機関車の正面に光が当たって大窓のEF58を撮る穴場だった。

雪国で活躍していた当時のものなのか、あるいは関ヶ原越えのためのものなのかは知らないが、この47号機用だったスノープローを友人が所有しているというのだから大したものだ!

(写真、文・U)

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2015年2月10日 (火)

EF8181牽引旧型客車の噂

少し前の記事に3月21日、大宮からEF8181牽引で旧型客車の臨時列車が日光まで運転されるとしたが、日光ではなくどうやら宇都宮のようだ。JR東日本大宮支社の設立を記念するもので、大宮発が午前8時半ごろで宇都宮着が11時10分ごろ。折り返しの宇都宮発が17時少し前で上野着18時40分ごろらしい。撮影する側としてはヘッドマークなど付かない方がベターなのだろうが、記念の列車という位置づけならばそうもいくまい。

またその前日20日には22時ごろ上野発、翌日9時ごろに女川着の24系客車を使用した臨時列車が走るらしい。石巻線内は当然DE10のプッシュプルとなりそうだが、上記EF8181の件も含めてあくまでも現時点での話だから行くなら再度確認の必要はありそうだ。

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通勤の際、東京メトロを利用するが説教じみたポスターが多い。
やれ「ヘッドフォンステレオの音漏れに注意しましょう」とか「電車内での飲食はご遠慮下さい」だとか「歩きながらのスマホは危険です」など、まるで幼稚園児を諭しているかのよう。

たしかにそういうバカな連中が掃いて捨てるほどいるのは間違いないが、金をかけてそんなポスターを作らなきゃ分からないほどなのか。

こんなポスターを張り出すほど公衆マナーが低下している現実には情けなさを感じる。親の育て方が悪いのは言うに及ばないが、本人がそうしたことで周囲に迷惑をかけているという意識が欠如しているのだろう。これが先進国と言われる日本の首都の地下鉄のポスターなのだから恥ずかしいことこの上ない。

かつて北京五輪開催前に中国人のマナーが問題になったが、2020年はいよいよ日本でもそんなことになるのか!
実際、昨日も比較的客の多い夕方の田園都市線に乗ってきた妙齢の女が、やにわにパンをかじりだしてガツガツ飲み食いし始めたのを目の当たりにすれば、やはりこのようなポスターの必要性は感じるのだが…。

それに比べれば大阪の、「痴漢アカン!」「ヒッタクリン(ひったくり撲滅へ向けたキャラクターのポスター)」「京阪乗る人おけいはん」などのポスターにはほのぼのさせられる。

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その大阪で1980年9月29日に撮影した荷物4047列車。この年の8月に広島から米原に転属したEF5869によるもの。米原での活躍は約2か月で、その後お召し列車などで機関車が不足した東京機関区に貸し出された。
この朝、「きたぐに」で大阪に着いたシーンを撮影後、即移動して北方貨物線で回送を、そののち宮原機関区で止まりを撮った。

「トワイライトエクスプレス」がなくなると大阪、京都駅に入る客車列車は消滅する。

(写真、文:U)

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Img0951 【ご注意】

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2015年2月 8日 (日)

秋田機関区の2両のトップナンバー

まずはお願いいたします。
「それがどうした、今の秋田車両センターにはE611-1だって、E621-1だって、E625-1だって、E627-1だって、E629-1だって、E628-1だって、HB-E301-1だって、HB-E300-1だって、HB-E302-1だって、キヤE193-1だって、キヤE192-1だって、キクヤE193-1だって、トップナンバーはいくらでもあるぞ」って展開はどうかなしでお願いいたします。
私が言いたいのは昭和50年代初頭、秋田駅構内に隣接していた秋田機関区の話なんです。

それからもう一つお願いがございます。
私よりもかなり年上であらせられます、昭和20年代生まれ以前の諸先輩方がいらっしゃいましたらのお願いでございます。
今日ここで取り上げます機関車は、全線電化開業前の東北本線十三本木峠で皆さまをさぞやご不快な思いをさせたでありましょうものと拝察いたします。
本来は「本務機C61、後補機D51の急行列車」の本務機に、はたまた本来は「D51三重連の貨物列車」の前ガマにこの機関車が来ましたら、それはもう「ふざけんじゃねぇ、馬鹿野郎!」どころの騒ぎでは済まなかったことでありましょう。
私などの若輩者はそんな凄い時期の凄い列車でDLを喰らったことはもちろんありませんが、もう皆さまが見向きもしなくなった末期の列車では何度もDLを喰らっております。
このため、皆さまの万分の一ほどの悔しさは経験し、皆さまの悔しさをご察し申し上げますことはできます。
今でもこの世で一番見たくない物体でありましょう。
そんな機関車でございますので、どうか堪えていただけますようお願い申し上げます。
どうしても「ふざけんじゃねぇ!」という方がいらっしゃいましたら、下に掲載いたしました写真までどうかスクロールいただきませんようお願い申し上げます。

さて、前置きが長くなってしまいました。
秋田機関区のそんな取扱い要注意のトップナンバー、それはDD51 1号機です。
総勢649両が製造された日本を代表するDL、DD51形式の初号機です。
1962年の新製配置が秋田機関区で、まずは奥羽本線で矢立峠区間(陣場-碇ヶ関間)などを中心に奥羽本線で壮絶な性能試験が施行されたそうです。
これは直接見たわけでも性能試験担当者から話を聞いたわけでもなく、試験結果の報告書を読んだだけなので、詳細には言及できません。
なぜ奥羽本線が試験線区になったかといいますと、秋田機関区にはD51とともにDF50がたくさん配属されていて、奥羽本線では本務機に、矢立峠の補機にと活躍していて、本線用DLについてのノウハウがあったからにほかなりません。
C61やD51の煤で真っ黒になって働くDF50の写真をよく見かけたものです。
さまざまな試験ののち、DD51 1号機は盛岡機関区に転配され、引き続きD51などとともに試験の続きをやり、液体変速機や過給機、そして機関と、さまざまな問題点を出しきって、その後の量産化に寄与したそうです。

東北本線全線電化に伴う1968年10月改正でDD51 1号機は古巣の秋田機関区に戻り、奥羽本線や男鹿線の仕業に就きます。
私がこの機関車を時々見かけるようになったのは、それからの時代です。
奥羽本線や羽越本線の蒸機撮影で秋田近辺を通ると、見慣れない大きなDLがいたんです。
それがDD51 1号機でした。
ED75 501号機の記事でも書きましたが、そのED75 501号機と同じように、DD51 1号機も蒸機がなくなったらきちんと撮りたいと思っていたんです。
前灯には何も飾りがなく、キャブはひさしのない丸みを帯びた形状。
それはDD13をそのまま大きくしたような愛嬌ある出で立ちでした。
結果的に本線蒸機を駆逐した元凶ではあるんですが、この機関車だけはどこか憎めない表情をしていて、いつか撮りたいものだと思っていました。
(私は蒸機スジにDD51が来たのはすべて2号機以降ですので、この形状にアレルギーがないだけですが)
というわけで、蒸機全廃直後、秋田機関区のDD51 1号機の運用を少しばかり追いかけました。
写真はその時の走行シーンにしようかと思いましたが、その後の秋田機関区に入区した一連のコマを掘り返していると、ED75との並びがありました。
そのED75は701号機で、700番台のトップナンバーでした。
ED75 700番台は奥羽本線にしかいないので、701号機はブルトレなんかでも時々見られたんですが、秋田着の列車から解放された701号機はちょうどいい位置に入区してきてくれたんです。
ついでに言えば、ED75 701号機も1971年10月改正での奥羽本線秋田-青森間電化であの20号機を含みますC61を追い出し、大量のD51たちをとう汰に追い込んだ張本人なので、当時の私にはむしろこちらの方にアレルギーがありました。

でもね、よく考えてみますと、1971年10月改正まで青森機関区にD51 1号機がいて、奥羽本線での仕業を持っていましたから、「D51 1号機とDD51 1号機の並び」が東北本線に続いて奥羽本線でも狙えたんですね。
並びといったそっちだろうと今になって後悔しきりなんですが、当時の中坊にはそれはちょっと荷が重かったですかね。

(写真・文/某I)

Dd51_1_ed75_701

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2015年2月 7日 (土)

「つばめ」マークのEF5861

久しぶりに表題のEF5861の写真をアップしようとネガから取り込んだのは、1981年7月25日に運転された臨時「つばめ」のヘッドマークを付けたシーン。撮影は前日に当時の東京機関区で。

その7月24日はどんよりした空模様。真夏だったからトップライトよりはマシだったかもしれないが、白を基調としたヘッドマークは文字やツバメのデザインまでもが白飛びしそうで手強かった。撮影していても角度によっては文字やツバメの輪郭がはっきりと区別できない状況もあり、その部分がなるべく黒っぽく写る立ち位置を探すことを心掛けた。1982年に運転された「はと」などは青地に白いハトの絵が描かれていたから色は出やすかったが、この「つばめ」は後年のブルートレイン「さくら・はやぶさ」のようで、写真にするにはなかなか難しい被写体だったと思う。

特に一発勝負の走行写真は立ち位置が決まってしまうからなおさら。この止まりの写真を撮るチャンスに恵まれて本番は気楽だった。(残念ながら被ってしまったが)

ただ、この前後から61号機は何かとイベントに引っ張り出され、何でもかんでもヘッドマークが付くようになり、そのことが写欲を削ぐ結果となる。
当時はマークに対する物珍しさが勝ったが、就職試験なども重なる時期を迎えるようになると、マーク付きの運転時は優先的に撮影対象から外すようになっていった。

(写真、文:U)

Img124_2

Img1271

Img1281

(写真、文:U)

【ご注意】

アップしてある写真を見ていただく際、画像の上にカーソルを持って行って左クリックで拡大するよりも右クリックし、「リンクを新しいウインドウで開く」で見ていただく方が、よりオリジナルに近いクオリティで見ることができます。

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2015年2月 5日 (木)

キヤノンが5千万画素機を発表へ

近々、キヤノンが5000万画素機を発表するようだ。発売はもう少し先になるもようだが、遂に5000万画素オーバーの時代に突入する。

この件に関しては過去の記事で安易な使用に要注意との個人的意見を述べてきたが、三脚は常に持参し安価なレンズを避けるのは最低条件。高画素を過信しすぎないよう、じゅうぶん試し撮りをしたうえで本番に投入したい。

「北斗星」など夜行列車がまもなく終焉を迎える、残り少ないチャンスに手痛い失敗をして、「豚に真珠、猫の小判」となることだけは避けたいものだ。

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数少ない回数しか撮っていない当時、広島機関区配置のEF5819。広島では最初に廃車となったグループで、これが撮れたのも偶然でしかない。

1977年6月、高校生だった自分は授業中に体調が悪くなって早退を申し出て3時間目の途中で学校を抜け出した。しかし帰り道、なぜか体調が復活、それならせっかくだからと思って前日、上京しているはずの広島区のEF58牽引回8111列車を撮りに東京駅に寄った。
さすがに135ミリは持っていなかったが、カメラを持って通学していたのはいつものこと。まずは手堅く東京駅に向かったところ、機関車の形態分類でおなじみのS氏がいらっしゃったことを思い出す。
これがPS22Bのパンタグラフを装備したEF58を見た最初で、この頃は大窓などということも意識にはなく、そちらの方が珍しかった。

続いて、走行シーンを撮ろうと京浜東北線で大井町に行ったが見事な被り。しばらくこの写真もプリントすらしなかったが19号機が廃車となったことを知って紙焼きした。

(写真、文:U)

Img0881_2

 

 

【ご注意】

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2015年2月 3日 (火)

EF65 503 “さくら”

Uさんの調子があまり良くない様子ですから、こちらもスクランブル態勢でいきましょうか。
(スクランブルというのはオーバーですかね。バトルステーションくらいでしょうか...)
【↑バトルステーション:アラート待機する戦闘機が滑走路の手前まで出て待機する、スクランブル(緊急発進)の一歩手前の状態です。以上、加筆しました】
Uさんはここ2週間ほど社会情勢の関係から業務がより激務になっていたでしょうから、体調不良はさぞや辛かったことでしょう。
ま、私はスランプの克服法バチが当たったと思うんですけどね(笑)。

さて、今日はEF65Pのブルトレです。
昨年の12月、EF65 501号機によりますリバイバル団臨“富士”が走りましたが、こちらは東海道ブルトレ現役時代のEF65Pです。
あの時にスカ線が被った記事で書きましたが、写真のEF65 503号機は501号機とともに1972年10月改正で東京機関区から下関運転所へ転配されまして、これは台検代機として上り“さくら”の先頭に立つ姿です。
おさらいしますと、東機のEF65Pは下転で集中台検を施行するようになりましたが、その台検時の東機仕業を肩代わりするため、EF65 501~504号機の4両が下転に転配されました。
台検を控えた東機のEF65PがをEL1組A1仕業に入り、下転に着くとそこで運用離脱して台検入りし、代わってA2仕業からA5仕業までの計4仕業(下関-東京間往復)に下転のEF65Pが入り、戻ると東機のEF65Pの振替台検が終わっていて所定運用に戻るという寸法です。
写真の503号機がけん引するのは本来の東A2仕業(明け)の2列車“さくら”ですから、東京ベースで考えますと、この日の東A3仕業3列車“はやぶさ”で下り、さらに翌々日の東A4仕業(明け)の4列車“はやぶさ”で上り、東5仕業の5列車“みずほ”で下るというわけです。

そうなりますと、下転に転配された4両はそれまでの激務とは異なり、ずいぶんと楽していたように思われがちです。
でもね、決してそんなことはありません。
東京-下関間は両側の回送、単機、入換を含めますと、1仕業当たりの走行距離は2253kmにもなります。
ひと晩でこの距離を走るわけですから、東機配属のEF65P全体での日車キロは実に2000kmに達しようかという勢いです。
そうしますと、EF65形式は全検、要検から15万km走行で台検が来ますから(東機のEF65Pに経過日数などはまったく関係ありません)、1両当たりでは1年ちょっとの間隔で、年間当たりでは約20両のEF65Pが下転での台検を施行することになります。
下転ではそのたびに5日間ずつ肩代わり仕業があり、さらに自区の臨時仕業やEF58関西ブルトレ仕業にも入りますから、多少は走行キロが抑えられる傾向にはありますが、決して楽というわけではないんです。
だいたい、1965年10月からそれまでのEF60 500番台に代わって東京機関区EL1組、つまり東海道ブルトレ仕業で活躍を始めたEF65Pですが、501~504号機は1972年10月までの7年間で200万kmほどを走ってしまっていたんです。
当時の貨物用電機では、一生かかってもそんなに走らない機関車がいくらでもありましたことを考えますれば、これがどんなにすごい数字かをご理解いただけるかと思います。
そして、東機EF65Pの東海道ブルトレ仕業はそこから6年先の1978年まで続きましたから、EF65Pはブルトレけん引だけで400万km近い走行距離を叩き出してしまうことになります。
この間、最初はぜい弱だった主電動機MT52も、東機、下転両区所の技術管理の壮絶な努力によって最強のモーターへの階段を昇っていきました。

その後、EF65Pは貨物用となり、また501号機は操配用となっていきますが、ブルトレけん引という使命を全うしきった彼らにとってそれはまさに余生と呼ぶにふさわしい時間でしょう。

(写真・文/某I)

Ef65_503

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2015年2月 2日 (月)

1台のカメラで

前回の自分の記事で昔のカメラ雑誌がSLファンをあまり相手にしていなかった旨のことを書いたが、たしかに思い出してみてもその印象は強く残っている。

当時、自分は小学生から中学生。蒸気機関車末期にようやく高校に上がったが、本屋に行くと鉄道雑誌だけではなく、「アサヒカメラ」「カメラ毎日」「日本カメラ」の3誌にも必ず目を通していた。カメラやレンズの新製品および中古品の相場などを探るためだったが、そこに掲載されていたヌード写真を見るためでもあった。
もちろんこのころには「平凡パンチ」や「プレイボーイ」「GORO」など若い男性向けの雑誌もあったが、そんな本に載っているモノよりも写真誌に載っているヌード作品はヘアが見えるものが多いということに気づいていたためだ。正直言えば芸術性の高いヌード写真でも、色気盛りのガキにとってみれば毛が見えるか見えないかといった関心の方が高く、この辺はいかに「平凡パンチ」などをもってしてもカメラ雑誌には及ばない。だから、そんな写真が載っているものはしっかり買った。

理由の不純さはさておき、かようなわけで当時からけっこう目を通してきたカメラ雑誌、しかしどうしてカメラ雑誌には蒸気機関車の写真があまり載らないのかという疑問も湧いた。

あのころの広告で印象的なのはレンズメーカーのコムラーや三脚メーカーのスリック。ズームを使えば走ってくる蒸気機関車を何度も撮れるとか、三脚にカメラを複数付けることが可能なダブルプレートを装着し、伯備線の布原に集まったSLファンを広告写真に使っていたが、蒸気機関車の写真そのものは作品としてほとんど掲載されないことにいつも違和感を覚えた。

そんなとき、その疑問の回答になるような強烈な文章を月例コンテストで見かけた。
入選か佳作かは忘れたが、コンテストに入った蒸気機関車の写真に評者が一応は褒めているものの後段では、「…どうせ三脚にカメラを複数付けてファインダーをのぞかずに撮影したのではないか。しっかりカメラをのぞいて撮れば、フレーミングがもっと良くなっていたはず。ファインダーというものがあるのに、それを使わないのは…」という主旨のことが添えられてあった。言外に「だから蒸気機関車の写真なんぞ…」という感覚が、当時の中学生であった自分にもありありと漂ってきたほどで、そんな撮り方をしているからカメラ雑誌はSLファンを相手にしないのだと強く印象づけられたものだった。

思い返せばあのころのコンテストにはその後、鉄道雑誌で活躍された柴田和男さんや原京一さんをはじめとする蒼々たるベテランが応募していたが、どうもカメラ雑誌での鉄道写真は鬼っ子。被害者意識的な言い方になってしまうが、かつてはそんな扱われ方が普通だったように記憶している。

だから今回の「アサヒカメラ」の鉄道写真特集には隔世の感を抱く。
広田尚敬さんをはじめとするプロ作家の方々の努力が実を結んだとの素直な受け取り方がある一方、良いとか悪いとかは別にして遂にカメラ業界、ひいてはカメラ雑誌の世界も鉄道や飛行機、レースなどの乗り物写真を組み込まなければ商売にならなくなったのかという皮肉な見方が自分の中で支配的。
あの時代の写真誌を垣間見ているからこそなのだが、どうにもこの印象が払拭できず、手放しで楽しんでばかりはいられない。

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1月9日にアップした画像と同じ時に撮った「トワイライトエクスプレス」。複数のカメラで撮っているわけではなく、同じカメラで撮影した。
前段で書いた昔のカメラ雑誌に掲載されたコンテストの選者の評に影響されたわけではなく、自分自身もファインダーを見ずに複数のカメラで撮ることを、あまり潔しとはできない。

それに最近はカメラの性能もグンと上がって、前のコマでもトリミングでじゅうぶんに大きくできるから丁寧に1台のカメラで複数枚、撮った方が無難で、むしろ2台以上のカメラを同時に扱う方がリスクが高いとすら感じる。

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実はここしばらく激しい胃の痛みに襲われていて前回、前々回などは薬を飲んで痛みが治まっている時を見計らってごくごく短時間で記事を書いた。そうまで して書いても仕方ないのだが、このブログだけで軽く1000本以上の記事を書いてきたから、これはもう半ば習慣化してしまっており、逆に書かないと不安にかられてしまう。端から見ればどうでも良い執着だが、それが途絶えてしまうと熱も冷めてしまい、一気にこのブログを維持することなどどうでも良くなってしまいそう。ブログの言い出しっぺでもあり管理人的矜持もあるから、どうにか踏ん張ってはみたが、Iさんの記事は大変ありがたいし、執筆者の1人としてではなく1読者として単純に楽しませていただいた。仲間とやっていることのありがた味が身にしみる。

やっと痛みも緩和され今日は少しはマシになったが、歩けないほどだった痛みの余韻は全く消えたわけではない。酒や消化に悪い食べ物は控えて、飲むヨーグルトやプリン、玉子豆腐などで食いつないでいる。

(写真、文:U)

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